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錯太郎
福岡県 /
男性
竹、竹、竹が生え。
光る地面に竹が生え。

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- 2019.12.05 23:38
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「俺はいつもえらい考えてるなあ」と思ったが、
今日、考えているのは、自分ではないと気付いた。
思考が勝手に考えてるのだ。
思考が思考する。
それも、
天命が天命する、
その、一つの在り方である。
最近の異常犯罪の記事を読むにつけ、思う。
この犯罪者たちは、間違っている、と。
何が間違っているのかというと、
天命を私している。
天命を、「自我」の都合によいように、恣意的に使用している。
それが最大の間違いである。
だから、身を過つのである。
「天命」とは、「神」であり、「佛」でもあるが、
自己を離れた、客体的対象としてあるのではなく、
その働きは、自己の内に現に生きて動いている。
であるから、いくら「神」や「佛」に対して祈っても、
何の効験もあろう筈も無い。
「神」や「佛」は、外にある客体・対象でなく、
今、此処に、現に生きて働いているものであるから。
それも、自らを通して。
「お前の話はムツカシ過ぎて、よくワカラン」
と、人からよく言われる。
しかし、簡単なことを故意に晦渋に表現したりはしない。
ただ、思ったことをあるがままに表明しているだけだ。
あるがままに、
即ち、
天命のままに。
天命が天命するままに。
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日記カテゴリ
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コメント数(4)
こんばんは。
再度ご訪問、ありがとうございます。
「内なるものの声」と言われて、何もピンと来ませんね。
なんせ、僕はテレビ・映画の類いは一切見ませんから。
俗事には疎いのです。
そういう題の書籍名も浮かびません。
「内なるものの声」も大事ですけど、
人間は、それを、「私の欲望(煩悩)の声」と勘違いしてしまうのです。
ですから、「あるがままに」と言いながら、
その実は「私の欲望のままに」ということが往々にしてある。
学ばないと、その区別がつかない訳です。
ですから、「自我」の欲求に応えるだけでなく、
日々、「学び」が必要なのです。
学ばないと、何も客観的なことが分からず、
ただ私的な欲望の奴隷に成り下がるだけになってしまいます。
「学」って必要ですよ。
私的な欲望の実現(立身出世とか)の為ではなく。
こんにちは!
コメントを頂き、嬉しく思います。
僕が、というか、僕の思考が思うことは、
日々の読書と思索に依り、自ずから生まれます。
学ばなければ、一生「天命」を知らずに、徒に酔生夢死するのみです。
あの孔子先生ですら、「天命」を知ることができたのは、
やっと五十歳になってからです。
学ばなければ、一生分かりませんよ。
「無が天命」というより、「天命について無知」と言うべきでしょう。
まあ、なつさんに無理強いするつもりは更々ありません。
なつさんはなつさんで、その「天命」を生きてください。
が、思ったことは、どこから出てくるのでしょう(๑˃̵ᴗ˂̵)
何も出て来なければ、無が天命?